日本の脱毛文化|平安時代から昭和初期まで、美意識の変遷

はじめに

脱毛といえば、現代では当たり前の美容ケアの一つですが、日本にも古くから独自の脱毛文化が存在していました。
平安時代の貴族社会から、江戸時代の庶民文化、そして明治〜昭和初期の近代化の波の中で、脱毛への意識はどのように変化していったのでしょうか。
本記事では、時代ごとの美意識の移り変わりをたどりながら、日本ならではの脱毛文化に迫ります。

平安時代

顔剃りは美と教養の証

平安時代、貴族社会において顔剃りは極めて重要な身だしなみとされていました。
女性たちは、白粉(おしろい)を滑らかに乗せるために顔の産毛を丁寧に剃り、透き通るような肌を演出していました。
顔剃りは、単なる美容行為ではなく、教養ある女性のたしなみであり、母親から娘へと受け継がれる大切な作法でした。

男性もまた、髭や眉を整えることで、身なりを清潔に保ち、社会的な礼儀を示していたのです。
平安貴族にとって、体毛を整えることは、単に美しくあるためだけでなく、精神的な美しさを体現する行為でもありました。

江戸時代

庶民にも広がった「身だしなみ」としての顔剃り

江戸時代に入ると、顔剃り文化は武士や町人階級にも広がり、より日常的な習慣となります。
女性たちは、成人や婚礼の儀式の際に「初顔剃り」を行い、大人の女性としての第一歩を踏み出しました。

化粧文化も発展し、白粉を重ねる上で顔剃りは欠かせない準備となりました。
また、江戸の町には「髪結い床」や女性専用の「顔剃り屋」が登場し、プロによる顔剃りサービスが広まっていきます。

顔剃りは、美しさだけでなく、清潔感や社会人としての品格を保つための行為と位置づけられ、
江戸の女性たちにとって欠かせない身だしなみの一部となっていきました。

明治時代

西洋文化と「体毛観」の衝突

明治時代(1868年〜1912年)、日本は急速な西洋化を迎えます。
文明開化の波に乗り、服装や生活様式が大きく変化する中で、西洋から「体毛」に対する新しい価値観も流入しました。

西洋では、すでに18世紀から19世紀にかけて、特に上流階級の女性たちの間で、腕や脚のムダ毛を処理する文化がありました。
日本でも、特に外交官夫人や女学校に通う上流階級の女性たちを中心に、「手足のムダ毛を気にする」という西洋的な感覚が少しずつ浸透していきます。

とはいえ、当時の一般庶民にとって、体毛処理はまだあまり重要視されていませんでした。
顔剃り文化は根強く残っていたものの、腕や脚の脱毛は「特別なもの」という位置づけにとどまっていました。

大正〜昭和初期

雑誌広告が脱毛意識を広める

大正時代(1912年〜1926年)から昭和初期(1926年〜1940年代)にかけて、日本の都市部ではモダンガール(モガ)と呼ばれる新しい女性像が登場します。
彼女たちは洋装を身にまとい、短めのスカートやノースリーブのドレスを着こなすようになりました。

これに伴い、腕や脚のムダ毛への意識も高まっていきます。
特に都市部では、女性向けの雑誌広告に「脱毛クリーム」や「カミソリ」の宣伝が登場し、
「見える部分のムダ毛は処理するのがエチケット」という考え方が広まっていきました。

一方で、昭和初期の脱毛はまだ手作業中心。
熱した蜜蝋や専用のクリームを使った手間のかかる方法が一般的であり、
また、庶民層には「ムダ毛はそのままでも構わない」という考えも根強く残っていました。

このように、昭和初期の日本では、「脱毛する女性」と「しない女性」が共存する社会が生まれつつあったのです。

まとめ

日本の脱毛文化は、時代とともに変わり続けた

平安時代、顔剃りは貴族社会の教養と美しさの象徴でした。
江戸時代には、顔剃りが庶民の身だしなみとなり、社会的なマナーとして定着。
そして明治以降、西洋文化の影響を受けながら、脱毛への意識は身体全体へと広がっていきました。

脱毛に対する価値観は、常に社会の変化、文化の流れ、美意識の変遷とともに進化してきたのです。
現代を生きる私たちもまた、数百年続く「美と身だしなみ」の歴史の一部に連なっているのかもしれませんね。